ウール(ur)は原初、起源、根源を意味するドイツ語の接頭辞である。たとえばゲーテは植物の語にこれをかぶせて原植物(Urpflanze)という新概念を立てた。詩人はこの造語で、さまざまな変容の元となる典型もしくは現存在の根っこをなす理念としての植物を想定している。田辺の仕事が稲作の道におけるウールの探究に方位 を定めた経緯はすでに述べた。今回はその探究がどう展開されたのかを見たい。
 稲作の道には関係する諸科学がひしめいて百家争鳴の盛況である。考古学上の発掘では水稲耕作の最古の跡を競う長江流域、とくに河姆渡(かぼと)遺跡での7000年前の籾の出土は画期的である。田辺はこれらについて知見を深める一方、籾をテーマとして大小の作品をつくり、1989年と92年にはステンレス鋳造による連作の個展を催している。この時期の作品には形態の変化が著しい。円満具足を形にしたような栽培の籾から、ノギと称する長い角をもつ精悍な野生の籾への変化である。

 田辺の探究は今や野生稲の道なき道へ分け入ったのである。もともと野生稲は太古には北緯30度を越えて北に生育していた。これは河姆渡遺跡出土の籾の中に野生の籾が高い比率で混ざっていたことで知れる。しかし後世の気温変動で野生稲は熱帯地方に南下し、そこで稲作の普及と共に水田の雑草扱いされ、原野の湿地帯にからくも安住の地を得た。この野生稲を少なくとも7000年をさらにさかのぼる大昔に、いつだれが栽培し始めたのかは闇の中である。むろん現代では遺伝子銀行や研究施設内での栽培による野生稲の保存はなされているが、自生地そのものの保全は顧みられることはく、最近の乱開発によって野生稲は絶滅の一途をたどっている。1992年に田辺は、この分野で気鋭の学究である佐藤洋一郎博士を知己に得て、自生地保全の運動を共同して提唱した。
 この時期の田辺の連作は、中国の浙江省博物館、同じく河姆渡遺跡博物館、マニラの国際稲研究所(IRRI)で展示されそれぞれ収蔵された。このうちとくにIRRIの展示は、麻の籾袋を広げた黄金色の籾の堆積の上に銀色の鋳造作品を祭るように横たえている。これによって野生稲は稲作の父であり、人類の未来にかけがえのない宝であることが一目瞭然である。
 この展示から察せられるようにIRRIの当時の所長でドイツ国籍のクラウス・ランペ博士は、田辺の仕事をその本質において理解した人物である。博士は1994年、IRRIの厳しい財政の中で田辺を最上級の所員待遇で招聘し、参観者ホールを飾る作品を自由な発想で制作するよう委嘱したのである。おそらく博士は、ともすれば象牙の塔の密室になり易い研究所にアートの風穴をあけ、清新の気を取込むと共に明日を担う活力の高揚を期待したのであろう。これに応えて田辺はレッドラワン材8tを使って『野生稲の発芽』を制作した。未来への夢を孕む超大作であった。

 同じ年に東京でIRRIの研究集会が催され、田辺は再びランペ博士の要請で会場(日経ホール)のディスプレーを担当した。彼は全長11mに及ぶ野生の籾のドローイングを新たに描いてこれを演壇中央に掲げると共に、壇の左右には野生の籾の鋳造作品と、フィルピンでかつて使われていた犂の現物とを配した。さらに会場入口には、IRRI本部に制作したばかりの作品『野生稲の発芽』の巨大なカラー写 真を飾った。今こそ原点に帰ることがいかに重要かをアピールする展示であった。これらの展示品のうちドローイングと鋳造作品とは、関係者の総意と彼の決断によって、集会の主賓でありレポーターの1人でもあるタイ国王女に献上された。
 この集会の直後、タイでは王室のプロジェクトとして「野生稲の自生地保全」が発足した。田辺はこれに参画し、1997年バンコク郊外パトム・タニの国立稲研究所に全長33mに及ぶ野生の籾の壮大な野外記念碑を設置した。この作品は籾本体の長さが3mで、残り30mは実際に本体の最低でも10倍あるとされるノギである。
 ぼくはこの碑の除幕式に参列した。その時ぼくは、10年前田辺と一緒に訪れた静岡県三島の国立遺伝学研究所で初めて目にした野生稲とその籾の全容を思い浮かべていた。連綿と生命を継いで現存する精気溢れる籾の本体と、一転して繊細優美しかもこの上もなく豪奢に伸びるノギは、田辺の作品と一致する。対象の全容を形づくろうとするのは、古来、造化への畏敬と讃仰に基づく理想主義に由来している。田辺がこの碑を表玄関に飾るのを断って、あえて茫とした実験水田の中に据えたのは期するところがあってのことだろう。果 せるかな、幕を払って白日下に全容をさらした籾は、160haの空間を寂として傾聴させる理念を謳い上げている。