「コーガ石彫刻フェスティバル」
 東京都新島村は「アートアイランド新島」というキャッチフレーズのもと、島特産の珪酸を多く含む火山岩−コーガ石を活用して、1988年から「国際ガラスアートフェスティバル」、1992年から「コーガ石彫刻フェスティバル」を開催し、文化的情報の発信を試みている。
 後者のイベントは、彫刻家を招聘し、その滞在により作品を制作するアーティスト・イン・レジデンス方式を採用し、完成作品を島内に恒久的なものとして設置する。作品制作風景の公開と平行して、島内外の一般市民を対象とする彫刻のワークショップや講演会も開かれる。  1996年、招聘となった田辺氏は、環境保全をテーマとする作品を制作した。この作品が、これまでに設置された視覚的作品形態のみに依存する9点程の通常の野外彫刻作品群とは、社会的テーマの有無に関し、異なる傾向を見せたのは当然だが、田辺氏にとっても新たな展開となった。美術の社会化という視点からも無視できない重要な手法が示され注目される。

『BIRD−海浜植物原生地「新島」』の構成
 1996年2月17日に完成した『BIRD−海浜植物原生地「新島」』という題名の作品は、和田浜と呼ばれる海浜植物の貴重な自生地に位置し、同一形態の22本のコーガ石を素材とする直方体の柱からなる全長105mの列柱部分と、ここから400mほど離れた海に面する断崖の下の巨大な岩塊に撮りの頭部と卵を彫りこんだレリーフにより構成される。前者の列柱の中央部には、「海浜植物原生地 東京都・新島」という文字と鳥の頭部を型どったブロンズのプレートが取り付けられ、後者のレリーフの掘られた岩塊の裏には「BIRD−海浜植物原生地」の文字が大きく刻まれた。
 これまでの田辺氏のモニュメントは、巨大かつ求心的で、作品の空間性や物質性を最大限に活用する点に特徴があった。こうした性質は、モニュメントの古典的性質といえるものだ。一方、「BIRD」は物質的に大規模な作品ではなく、空間的な求心性も稀薄である。作品構成要素は広い範囲に散在し、いずれの要素も見る人を圧倒するような規模、物質性をもたない。列柱は高さ120cm程度のものであるし、岩塊に掘られたレリーフも深さ5cm程度、石のもつ自然の紋様を生かしながらひそやかに彫りこまれている。モニュメントの放つ社会的メッセージを強調するために不可欠と思われた空間的求心性や物質性の大きさを放棄したにもかかわらず、「BIRD」はこれまでにもまして明確な社会的メッセージを放つことに成功した。日常生活の中で忘れられがちな環境のかけがえのなさやすばらしさを見る人に再認識させる力をもっている。

「BIRD」の骨格
 この作品の革新的な性質は、作品を取り巻く環境自体を作品の一部に取り込み作品化した点にある。つまり、「BIRD」は、列柱やブロンズのプレート、岩塊のレリーフのみによって構成される作品ではなく、そこに自生する面積約20haの海浜植物群落、岩塊とそれが所在する海岸、そしてそれら全てを取り巻く風景全体が作品の構成要素となっているのである。
 これを実現するために、列柱やレリーフは、物質的、空間的に小さな存在である必要性が生じたと考えられる。これらの人為的に創られる要素は、かすかな存在として散在し、周辺環境と同化することにより、環境が作品に引き込まれるのである。そして、自然という絶対的な普遍性をもつ要素を作品の一部として、「BIRD」は強力な社会的普遍性を獲得した。

抽象形態と具象形態の関係
 列柱のような幾何学形態は、個人の意志により恣意的に創られる形態ではないという点で一種の神秘的性質を得て象徴性をもつことが古くから経験的に知られており、現代のモニュメントに応用されることも多い。しかし、これまでの幾何学形態を用いたモニュメントは、いずれも空間的求心性や物質性の大きさと幾何学形態をリンクさせてきた。結果として、権力や権威という類の社会的イメージと結びつく傾向が強かった。「BIRD」の列柱は、幾何学形態を空間的求心性や物質性の大きさから切り離すことにより、その象徴性から権力や権威のイメージを除去し、自然の中に埋没し、自然との融合に成功する。権力や権威は社会的普遍性と表裏一体の性質をもつ反面、社会革命により崩壊する。普遍性という観点から自然画その上位にあるのは明白だ。
 ただし、幾何学形態が生み出す象徴性には限界がある。幾何学形態はしょせん抽象であり視覚的イメージでしかない。もちろん、神話的で崇高な精神性を表現し、ここから決定的な普遍性を生み出すことがあり、その魅力は捨てがたい。一方、具象形態は言語化が可能という点で、視覚的形態から踏み出しふくらみのある概念的イメージを形成できる。「BIRD」の列柱が発生するイメージを補強するのが、列柱の中に取り付けられたブロンズのプレートならびに岩塊に彫られた鳥をモチーフとするレリーフである。
 鳥という生物が、トキを引合に出すまでもなく環境問題を考える上で象徴的意味をもつ生物であることはいうまでもない。ブロンズのプレートに付けられた長い直線的な嘴をもつ鳥の頭は、その繊細で緊張感をともなう形態と、「鳥」の意味を巧みに活用・融合しつつ自然環境の脆さと危うさを豊かに表現する。さらに、岩塊に描かれた人間の目をもつ鳥と卵は、はるか昔からその場所に所在してきた岩塊に彫りこまれることにより必然的に自然に溶け込み、作品に自然を取り込んだ。その形態は、田辺氏のドローイングに共通してみられるモニュメンタリティをともなう和やかなやさしさをもつ。それは、現在の美術を席巻する洗練されたストイックな表現手法とは全く異なるプリミティブで温かな表現である。これまでの現代美術には見られなかった率直さと純粋性を秘めた表現手法であり、オリジナリティに富む革新的なものとして、注目されなければならないが、その革新性故に、古典化・権威化しつつある「現代美術」の信奉者にはとまどう人も多いだろう。現代の美術作品に「現代美術」性、すなわち私的なファンタジーが不可欠と考える人には期待はずれとなる。

「BIRD」の位置づけ
「BIRD」は、大自然の中に刻印された「精神の痕跡」として認識すべき作品である。一見、稚拙にも見える岩塊に彫られた鳥と卵のフォルムは、こうした認識の中で、抽象作品やリアリティの高い具象作品が生み出すことのできない広がりのあるイメージを発生する。これは、俳句のような短詩、盆栽や盆石、ヨーロッパの廃園などがもつ美的性質に類似し、「わび」「さび」「しほり」「かるみ」「ほそみ」などの概念と近い関係にある。「BIRD」は、恣意的な表現を抑制することにより、余情を引き出し、作品の美的性質として活用する。「余情」は美術作品の社会的普遍性を考える上で、キーワードの一つとして重要だ。そして、風光明媚な景観地に江戸期に数多く設置された歌碑との関連をここで指摘してよいだろう。歌碑は歌人がその場所で得たインスピレーション(=精神)を言語化し、それを物質化したものである。文学と美術にクロスオーバーしつつ場所との関連をもち、完成度の高い環境芸術の一分野となっている。限られた文字で抑制的に表現される詩の精神性を、碑の視覚的フォルムと素材感、書体、そして設置場所の環境自体が融合・強化し、余情を生み出す。「BIRD」と歌碑は、1.設置場所の環境を作品の一部として取り込み活用する、2.概念の表現に文字を使用する、3.設置場所の環境をテーマとする、というような点に関して近い関係にあり、余情の活用、すなわち暗喩的手法に関し共通する。

「BIRD」の本質
 こうして「BIRD」は、抽象形態と具象形態、そして文字による概念が生み出す質の異なるイメージを合成し、奥行きの深い豊穰なメッセージを放つ。作品は、自然環境へのメタファーとして機能し、鑑賞者から自然環境に対する遥かな思いを引き出し、その場所にすばらしくかけがえのない自然が所在することを実感させる。その表現はやさしさをともなう反面、現実を直視した過酷なもので、甘美で私的なファンタジーは存在しない。
 以上が「BIRD」のメカニズムである。
 だが、「自然」には、なぜ社会的普遍性がともなうのだろうか。実は、ここに「BIRD」の本質が隠されている。自然は人間と対峙する存在のように思われがちだが、いうまでもなく人間は自然の一要素であり、人間の精神もまた自然の一部である。人間は無意識のうちに外部の自然が、内部の自然すなわち自らの精神をプログラムした主体であることを知っている。宗教より上位にこの潜在的認識があると思いたい。このため、外部の自然は原理的にかけがえのないものとして認識され、美しく感じられるのではなかろうか。「BIRD」はこうしたメカニズムを巧みに利用する作品である。
 かつて、アルタミラの洞窟の住人は、彼らの生存を保証した野生動物(=自然)を祈りを込めて描いた。全ての住人にとって、それは生存のために不可欠なものであり、美しい対象であったはずだ。そして、現代人も動揺に自然との関係の中に生存が保証されており、その事実が、今日クローズアップされている。田辺氏はこの部分、つまり自然環境と人類の生存の関係を表現する美術作家であり、それにより作品の存在に対する社会的普遍性を獲得しようとする。
 岩塊に彫られた鳥の表現手法は、現代社会において形式化した一般的な美術作品としての追及を放棄し、本質への回帰を感じさせる。アルタミラの住人も「美術」という概念はもたなかったにちがいない。しかし、彼らは生存に関わる本質を率直に描くことにより決定的な美術作品を生み出した。
 このあたりに閉塞した美術を開く鍵があるのだと思う。