フルートからパーカッションへ

 私は中学校へ入ってブラスバンド部に入部した。
 小学校の時に器楽部に所属していた私は、何かに触発されてフルートを買って貰っていた。
 しかし、独学で中々音も出せずにいたので、ブラスバンドでは迷わずフルートを選んだ。
 自分の楽器を持って練習に行くと、3年生の先輩が楽器を見てくれて、バネが外れているからこれでは音が出ないよ… と言って直してくれた。
 そこで楽器を吹いてみると、今まで音が出なかったのがまるで嘘のように、楽器が鳴った。
 これは嬉しくて、それからは、毎日の部活が楽しみでフルートもそこそこ吹けるようになった。

 私が通っていた中学校のブラスバンドは、どちらかというと弱小な部活で、人数も少なく、特別 な指導者を呼ぶこともなかったが、生徒が自分達で結構前向きに活動していたのだと思う。1年生の3学期には、個人で中古のピッコロも購入して、部活生活に追われていた。

 2年生の夏、コンクールの2週間程前に、卒業して高校でもブラスバンドを続けている先輩達が、我々を指導しに来てくれた。
 その中のパーカッションの先輩が、我々の先生に「今回選んだ自由曲にはティンパニーが入っているのに、何でティンパニーがいないんですか?」と訪ねた。
「ティンパニーが無いと駄目かね〜」と先生。
「駄目です」と先輩。
「でもあと2週間だからね〜 叩くヤツもいないし」と先生。
「そういえばアイツ(私の事)は小学校の時にタイコ叩いてたんですよね」と先輩。
「でもアイツは課題曲ピッコロだし…」と先生。
「ティンパニーが入るのは自由曲だから」と本人の意向とは関係ない所で話が進み、結局私は本番2週間前に急遽ティンパニーを叩く事になってしまった。

 それから毎日、高校生の先輩がやってきての特訓が開始された。
 まずは、トレモロの練習。
 先輩曰く「トレモロがそこそこ奇麗に響けばティンパニーは上手に見える」という事で、1時間連続のトレモロの練習を1日2回義務付けられた。
 このトレモロ練習は早く強く叩かなくても良いから、力を抜いてティンパニーのバチをコントロールできるようにする事が目的だった。
 今思えば、長い時間トレモロを続けていると、無駄に力が入っている腕の筋肉が痛くなり、それでもトレモロを続けるためには、知らず知らずの家に力が抜けるという結構効果 的な練習だったのかもしれない。
 そして、続いてチューニングの練習である。
 自由曲として選んだ曲は、曲の途中で音を変えなければならなかったのだが、三十年以上前の中学校には、手締めのティンパニーしか無いのが当たり前だったし、我が弱小部活にはティンパニーが2台しかなかったから、どうしても途中でチューニングをしなければならなかった。
 最初は、チューニングのネジを右に何回転半回すと、必要な音に変えられる…という事を確認し、休符の間に確実に音を変える練習をした。
 そして次ぎに、コンクールの審査員がちゃんと耳で聴いてチューニングをしている風に見える様に、ヘッドに耳を近づけて小さく音を出しながら、チューニングのネジを細かく回して調整している様に見える練習をした。
 まあ、聴音に関してはピアノのレッスンに通っていた時に、随分鍛えられたので、本番までにチューニングはフリでは無くて、実際に出来るようになったのだが…
 そして、トレモロも何とかまともに出来るようになってコンクール当日を迎えた。

 コンクール本番は、まず課題曲では一番前の席で私はピッコロを吹き、課題曲が終ってから立ち上がって一番後ろまで歩いて行き、自由曲でティンパニーを叩いた。
 ティンパニーの出来より、その移動が恥ずかしかった。

 そんな事があってから、私はフルート・ピッコロとティンパニーの掛け持ち奏者になってしまい、3年生になってからはとうとうパーカッション専門になった。

その後もフルートは好きで時々吹いている。
 実を言うと、少人数で幼稚園などで頼まれて演奏しに行く時や、オケの本番でも3rdの奏者が必要な曲を何度か吹いた。昔と一番違うのは、とにかく息が持たない事である。


 ブラスバンドからオーケストラへ
 私が進学した高校は、当時開校10年目という学校だった。
 そればかりが理由では無いのだろうが、部活にも特色があり、野球部が無くてラグビー部があった。そしてブラスバンドが無くて、オーケストラがあった。
 入学前からオーケストラの存在は知っていたので、高校ではオーケストラでフルートを吹こうと思っていたのだが、入学式の翌日、中学の時のフルートの先輩に手を引かれ、パーカッションの部屋に押し込まれてしまった揚げ句に、あまりやる気のなかったパーカッションの先輩達に、いきなり合奏でティンパニーを叩くように申し付けられた。
 さすがに周りの先輩達は、いくら練習とは言え、いきなり1年生に合奏で叩かせるのをあきれた様子で見ていた。
 合奏の曲はドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の1楽章。
 冒頭いきなりソロの様なフレーズがあり、それが終るとすかさずチューニングである。
 高校には手締めのティンパニーが3台あったのだが、合奏の場には2台しか準備されておらず、おお慌てで初めてのオーケストラの合奏は終った。
 そして、私のパートはパーカッションに確定した。

この高校のオーケストラでは、先輩も後輩も本当に良い仲間として音楽を楽しんだ。
 今、私が所属している清水フィルハーモニー管弦楽団の前身は、この高校のオーケストラのOBオケである。

 大学オケと市民オケ

 私が何とか入学した千葉にあるの大学には、吹奏楽部はあったがオーケストラは無かった。
 しかし、3年間の高校生活でオケにはまった私は、吹奏楽をやる気にはなれず、やはり東京の大学に進学していた高校のオケの先輩のツテで、ある大学オケの団友という形でオーケストラに紹介してもらった。
 高校のオケと比べると、大学のオケはさすがに人数も多く、管楽器奏者には名人も大勢いて、感激した事を覚えている。
 しかし、パーカッションで人数を必要とする曲が無かったこともあり、実際に私に声が掛ったのは2年生に進級したときだった。
 私が1年ぶりにそのオケの練習に参加した時、パーカッションには4年生の先輩が2人いるだけで、その内の1人の方が教育実習で定期演奏会の練習に出られないとの事で、呼んで貰うことができたのである。
 大学生活初の曲はプロコフィエフの「ピーターと狼」。
 この曲は楽譜ではパーカッションは2人で演奏する様に書かれているが、色々と小物があって忙しい。
 楽器の内容はティンパニー中心のパートと、スネア中心のパートだったが、私に振られたのはティンパニー中心のパート。なかなか華々しいデビューではあった。
 その後も、この大学オケでは、ベートーヴェンの交響曲第9番やマーラーの交響曲第1番「巨人」、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、ドヴォルザークの交響曲第7番、ベルリオーズの「イタリアのハロルド」などを演奏した。
 そして、仕事の都合で卒業後は都内に引っ越し、数年間東京で生活していた。そうした時、この大学オケではエキストラとしてストラヴィンスキーの「春の祭典」「火の鳥・全曲版」やベルリオーズの幻想交響曲などの大曲を演奏する機会を得た。

 大学時代も後半になって、高校のOBオーケストラの演奏会の企画が持ち上がり、千葉と静岡の行き来も多かったが、学生オケとは違う幅広い年代の人達が集まるオーケストラに初めて接した。
 そして、大学を卒業した時、先輩達の紹介もあって、いくつかの市民オーケストラにも参加した。
 自分の大学には勿論友人は大勢いるが、今でも繋がりが深いのはそうしたオケのメンバーである。

オケに入っていなかった大学1年生の時は何をやっていたかと言うと、信じられないことに真面 目に大学生をやっていたのである。
 まあ、結果として1年生の時に充分な単位を取得したおかげで、3年生、4年生の時はゼミ中心で、卒業に必要な単位 数は足りていた。練習の度に飲みに行っていた友人達の中には、5年生になった者も大勢いたのだから、1年生からオケに入っていたら、私も留年していたかもしれないのである。

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