オルガンと「紙鍵盤」

 私が初めて楽器と出会ったのは、まだ保育園に通っていた頃の事である。
 地元の楽器屋でやっていた「オルガン教室」という音楽教室に行くことになったのだ。
 まあ、相当むかしの話だから、今となってはなぜそういう事になったのかは定かではないが、少なくとも私の希望ではなかったのだと思う。
 家には楽器の類は無かった(曾おばあちゃんの三味線があったが…)ので、私はオルガン教室に通 うまで、ちゃんと楽器に触った事などなかった。
 しかし、そんな風に始まった私の音楽との出会いではあったが、オルガンに関しては、どちらかというと私は熱心な生徒だったのだと思う。週に一度のオルガン教室で楽器に触るのがとても楽しみだった記憶がおぼろげながら残っている。
 今は、楽器の購入と音楽教室というのは一体化しているのだと思うが、私が小さかった頃は、私と同じ様に家に楽器が無い子供は大勢いた。
 そんな状態でどうやって練習したのかというと、「紙鍵盤」というモノを使っていたのである。
 この「紙鍵盤」というのは、白い紙にピアノ(オルガン)と同じ様に白鍵と黒鍵が印刷してあるモノで、これを机の上などに広げて、その上で指を動かすのである。
 勿論、音は出ない。
 まあ音が出ないのだから、下手くそな練習で周りに迷惑をかける事も無かったのだが…
 そして「紙鍵盤」に向かって半年以上が経過して、我が家には本物の楽器がきた。

実を言うと、紙鍵盤の事などあまり覚えていなかった。しかし、先日東京の地下街を歩いていて「王様のアイデア」のショーウィンドウを何気なく見ていると「ハンドロールピアノ」なる商品が目に飛び込んできた。
 この楽器(というのはちょっと違うかも…)は、形こそ昔の紙鍵盤と同様に樹脂のシートに白鍵と黒鍵が乗っており、くるくる巻いて持ち歩けるのだが、そこは四十年前とは違って何と実際に音が出るのである。
 音域は4オクターブで和音も出て音色も100種類、電池動くそうだ。
 まあ、キーのタッチを考えればピアノの代わりにはならないけど、昔は紙に印刷したものだったんだからと思えば立派なものである。


 ワインレッドのピアノ
 オルガン教室に通う保育園児だった私の家に、ある日楽器屋さんがピアノを運んできた。
 その当時、オルガンを弾くのが楽しみだった私は、毎日の練習が「紙鍵盤」ではなくなる事は嬉しかったが、「なぜオルガンじゃなくてピアノなんだ?」と思った様な覚えがあるが、母から「オルガンよりピアノの方が本格的だから…」というような説明を受け、よく解らないながらも納得していた気がする。
 それよりも私が見てビックリしたのは、家に届いたピアノの色が赤かった事だ。
 赤と行ってもクリアラッカー塗装の様なもので、木目が透けて見えていたし、勿論こんな赤じゃなくて、今思えばワインレッドなのだろうがこんな赤色をしていた。
 
今は、小学生のランドセルだって、黒と赤以外にも、青や緑、黄色やピンクなどという色があるし、ピアノだって色んな色があるのは普通 だけれど、何せ今から四十年近くも前の事である。我が家にとって初めての楽器となったこのピアノは、今から二十年前位 に、知り合いのお宅に貰われて行ったが、そのお宅のお嬢さんからも、おしゃれなピアノとして可愛がってもらっていると聞いた。
 しかし、いったい誰が何故こんな色のピアノを買うことを決めたのだろうか。
 どうも美術大学を出た私の両親が、色を見て気に入って衝動買いしたのではなかろうか、と私は思っているのだが…。

紙鍵盤というのは、今では絶滅したと思っていたが、ネットで検索してみると、現在でも紙鍵盤をレッスンに使っているピアノの先生がいるようだ。
 そして、NHKの教育テレビで放映されている「趣味悠々」のビデオっていうのにも、楽譜と一緒に「紙鍵盤」が付録としてついているとの事。

 オルガンからピアノへ

 オルガン教室に2年通った後、小学生になった私はその教室で教えてくれていた先生にピアノの個人レッスンを受けることになった。
 週に2度、市内にある先生のお宅までバスで通った。
 この先生の所で、私は約2年間のレッスンと同時に、ピアノを弾く上での指の形の矯正を余儀なくされた。
 何せ、それまではオルガンと紙鍵盤の練習だし、グループレッスンだったので、先生もとても一人ひとりの指の形まで面 倒が見れなかったのだろう。私の指は鍵盤と平行に真っ直ぐに伸びて力がまるで入らなかった。勿論家にはピアノがあったが、指の形を指導できる者など一人もいなかったのだ。
 レッスンの内容はハノンやバイエルといった、当たり前のものだったが、それ以上に手の平に卵を持った様な形で構える練習が多かった覚えがある。
 ピアノを習い始めて2年が経って、どうもその先生は私に見込みがあると思ってしまったらしく、新しい先生を紹介してくれた。
 その先生は、音大を受験が前提の人を中心に教えている、市内でも有名な方で、始めてのレッスンの時に「毎日ハノンを1冊弾くと良いわよ。2時間位 で終るから…」と事も無げに言われてギョッとしたが、ピアノのレッスンは楽しかったし、聴音も随分やった。(ハノンは弾かなかったけど)
 
先生のお宅へは、やはりバスで通っていたが、最初の先生のお宅よりも遠く、小学校の高学年になって学校の部活動へ参加し始めると、だんだん足が遠のいてしまった。

本格的にピアノを教えて頂いた先生とは、今でも時々街でお逢いする事がある。
 以前私の行きつけの楽器屋でバッタリ逢った時、楽器屋の店員さんから「どういう知り合いですか?」って聞かれ、先生に恐る恐る「教え子って答えて良いですか?」って聞いたら「勿論よ!」と言って頂いた。


 鼓笛隊と器楽部

 私が通う小学校には、鼓笛隊があった。
 今の小学校では、トランペット鼓隊の方が多いのかもしれないが、小学校高学年で私が入った鼓笛隊は、リコーダーとピアニカ(って商標名だね=鍵盤ハーモニカ)、アコーディオン、と打楽器群という編成の団体だった。
 小学校5年生の時、最初アコーディオンの予定だった私は、人数が足りないし、男子だからという理由で初めて小太鼓を叩く事になった。
 鼓笛隊だから勿論小太鼓を方から吊るして歩きながら叩くのだが、今のマーチングの機材とは違い、楽器の重さが右肩にかかり、歩く度に揺れ動く小太鼓を叩くのは最初のうちは本当に苦労した。
 そして、小太鼓(スネア)奏者が必ずぶつかる壁であるトレモロ・ロールは、当然だがまるで出来なかった。
 ピアノを習っていたので、リズムは全然問題は無かったが、自分に小太鼓を叩くテクニックがまるで無い事が悔しくて、楽器屋でバチを買ってきて読み終った週間マンガ(少年キングだったかな?)をガムテープで机に固定して、アルミ製の練習用のバチを買ってきて穴があくまで叩いていた。
 指の皮が剥けても絆創膏を張って練習したのだから、今思えば関心な事である。
 そんな甲斐あって、比較的早い時期に小太鼓は随分腕を上げたと思う。

 小学校には、その鼓笛隊の打楽器の男子の大部分が抜けた状態でステージで演奏する「器楽部」という団体もあった。もしかすると「器楽部」にマーチングが必要な時だけ臨時の男子を加えて「鼓笛隊」にしていたのかもしれない。
 私は鼓笛隊の出番が無いときには、器楽部で打楽器を演奏していて、こちらに一生懸命になるのと反比例して、ピアノの練習は疎かになってしまった。
 その結果、レッスンにも足が遠のき、今思えば残念な事だがピアノのレッスンを止めてしまった。
 
その後、自宅近くのお寺で、ピアノを教えているというのを聞いて、何年間かレッスンに通 った。
 この先生も良い方だったが、何せ生徒があまりピアノに集中していない状態だったため、進捗状況は捗々しくなかった。
 中学に入ってしばらくして本当にピアノを止めたのは、髪型が原因である。
 清水市の公立中学校は、当時男子生徒は全員丸刈りであった。今思えば何でもないが、ピアノの発表会に丸刈りで出るのが苦痛だった。

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