MOMI 1997(WILD RICE)- IN SITU CONSERVATION(photo NAOKI TAKEDA)
 

  田辺光彰の「MOMI 1997(WILD RICE)- IN SITU CONSERVATION」は、文字通 り野生稲の籾(専門的には今日の米の原種とされる学名 Oryzarufipogon)をモティーフとする作品である。副題は「自生地保全」を意味する新しい専門用語であるという。
 全長33m、重さ4.5tにおよぶステンレス鋳造によるこの作品は、タイ国の王室がロイヤル・プロジェクトとして他にさきがけて自国内における野生稲の自生地保全に着手Lたそのことを記念して、現地に寄贈されるモニュメントである。東南アジアを中心にして自生する野生稲は、将来の品種改良に役立つ貴重な遺伝資源として認知されながら、今日の急速な都市化による人為的な環境の変化によって、その自生地ともども絶滅の危機に瀕しているのである。モニュメントの寄贈は作者自身の発意によっており、その制作費は新潟県上越市在住の実業家3名の呼びかけによる醵金(きょきん)に負っている。
 そもそも田辺が「籾」に注目したのは、1986〜88年にいたる間の2つの記念碑的な作品の制作がきっかけであった(プロフィール参照)。その1つはわが国有数の米どころである新潟県の、直江津港に建設したモニュメントであり、もう1つは、おそらくわが国への稲作伝来のルートの1つであったであろう朝鮮半島の、韓国国立現代美術館(ソウル)前庭に設置した野外造形作品である。後者にはすでに「籾」のタイトルが与えられている。
 これらの制作を通じて田辺は、米を主食とし稲作によって連帯性をもつアジアの文化的な基盤に遠く思いを馳せた。田辺は稲に関する多くの文献を読み、また中国大陸および車南アジア各地の稲作地帯を実地踏査することによって、今日の稲作の遥かな起源にさかのぼる野生稲に出会い、その籾粒に秘められた旺盛な生命力に制作意欲をかき立てられたのである。栽培種の普及以後はおおむね田園の雑草として扱われる野生稲を、「天の稲」もしくは「稲の父」と呼んで祭事に用いる地域と人びとがあることを、田辺は感銘深くメモしている。
 1989年および1992年に催した田辺の個展では、いずれも「籾」がそのテーマとなっており、芸術のルーペで拡大した籾粒の連作が展観された。これらの「籾」はその後中国における稲作文化研究の中心である浙江省博物館および河姆渡遺跡博物館においても展示され、それぞれの館に収蔵された。こうした活動を通 じて田辺は、野生稲を遺伝資源として研究するわが国の科学者および研究機関にも知己をひろげ、21世紀に予見される世界的な人口増加と食糧危機…すなわち人類の明日の生存にかかわる問題意識に立って稲作の重要性を再認識するとともに、野生稲が失われていく現状に理解と憂慮を深めた。
 1994年マニラに本部をもつ国際稲研究所(IRRI)に田辺は招かれて、そこの参観者ホールに「野生稲の発芽」と題する常設作品の制作をおこなった。これは科学が、データだけでは動かすことのできない人間の内面 に村する別種のメッセージを、共通の問題意識をもつ芸術に期待したからに外なるまい。籾本体と芽および根とからなる幅6m×奥行2m×高さ4mのレッドラワン材による田辺の作品は、この期待に力強く応えることのできる制作であった。因みにこの作品は、田辺が自宅に野生稲の籾を実際に播いたその体験と観察に基づいている。
 このIRRI本部での制作が機縁となって、同年東京で催されたIRRI日本交流会の会場に田辺は9mにおよぶ野生稲の籾のデッサンを飾り、「籾」の造形作品をも展示した。これらの作品は、関係者の総意と田辺の決断によって、会に主賓として招かれたタイ国シリントーン王女殿下に献呈された。この献呈の意味するところを明察された殿下は、科学者待望の野生稲の自生地保全を聴許され、ここにタイ王室のプロジェクトとしての事業が正式に発足する運びとなったのである。田辺もまたこのプロジェクトに芸術家としての立場から参画することになった。したがって新作のモニュメントには、今回のプロジェクトを成功に導きたいとする作者自身の強い使命感がこめられている。

 今回のモニュメントのみならず田辺の「籾」の作品は、そのほとんどがステンレス鋳造の先端技術に依拠している。それよって得られるのは、「よごれない」「さびにくい」「こわれない」とう三拍子揃った素材である。これは表現内容の恒久性を願っての素材の選択であろう。この先端的な素材をもって、それとは村蹠的な1粒の籾が秘める生命力を表現するために、田辺は技術の常識をこえた技術の操作をおこなっている。それはアーク・エア・ガウディングと呼ばれる技術で、アーク放電によって得られる高熱(3000度)で金属を溶解し、同時に高速噴射する空気で溶けた金属を吹き飛ばしてく操作である。本来は鋳物の仕上げの段階で金属の残滓を取除くためにごく部分的にしか用いられない削りの技術である。
 しかし田辺はこれを操作して、無機的な固い鋳物の表層に万遍なくクレーターにも似た瘢痕(はんこん)を刻みつけていく。それは現場の技術者に言わせれば、人工的に間断なく落雷を起こしているのと同じだとのことで、まさに金石の皮なき皮を剥ぎ肉なき肉を抉る荒業である。その現場は灼熱、閃光、豪昔とともに火花が奔流となって飛散する修羅場である。しかもこのガウディングの直接の操作は機械によるものではなく、その瘢痕の1つ1つがまぎれもなく田辺の手作業なのである。
 もちろん制作のすべての工程は、厳正な技術的管理と現場技術者のゆきとどいた助言と協力のもとになされている。田辺が刻む瘢痕(はんこん)の1つ1つと、その瘢痕にさらに仕上げのダラインダーをかける現場の人の丹念な手仕事を日のあたりにすると、制作しているものが籾であるだけに、機械化される以前の農作業−−田植え、草取りの労働を彷彿する。この労働で培われた美質が、田辺のみならず先端技術の中にも息づいており、それが田辺の創意を支えているようにも思われるのである。
 新作のモニュメントでもっとも注目されるのは、籾粒の本体に付属する長い芒を中断することなく形づくったことであろう。この長芒はイネ科の植物の特徴の1つで、野生稲の籾にはとくに顕著に認められるものである。それは籾粒の10倍を越す長さをもっている。
 作品では籾粒の本体が3m、芒が30mとなっている。芒の部分は金型法による遠心力鋳造である。これは金型と共に原料の湯を回転させ、遠心力を利用して不純物や介在物を取除きより緻密な鋳造管をつくる方法である。その軽い歪を整形技術を逆用して、田辺は鋳造管に自然の曲線を与えている。
 もともと種の保存と繁殖の機能を担うと推定されるこの長芒は、1本の線として純一であり、優雅な曲線を描いて果 てしなく豪奢に伸び、その鋭利な先端にいたるまでしなやかなで、つよい生命力を躍動させている。それはまさしく美の諸特質を兼ね具えているとともに、たとえて言えば送信と受信との純粋な関連をもとめて空間に伸びるアンテナのように象徴的である。
 人びとはそのアンテナから、現に進行しつつある自然破壊と環境汚染にたいする自然の警告を聞くことになるであろう。この警告に襟を正す者は、必ずや人類の未来の生存へ天の福音を受信することになるに違いない。さらにまた8000年以前にさかのぼると推定される稲作の悠遠な歴史の足音に耳を傾け、この歴史が伝え、はぐくみ、ときには埋蔵していた文化の息吹を感得することになるかもLれない。
 現在、過去、未来をつなぐタイ王室の今回のプロジェクトの意味は、このように深く、重い。これを記念する新作のモニュメントは、記念碑作者としての田辺がつねに心に抱いている「芸術に何ができるか」の問いに促されての、自由意思に基づく自発的な制作なのである。
 私はこの発意を高く評価し、これに支援を惜しまなかった人びとと共に、この作品が現地で父なる稲の記念碑としてひろく愛され親しまれることを願ってやまない。