バーデンで会ったベートーヴェン

ヴァイオリン 増 田 光 一  
バーデンのに残されている『第9の家』。
1923年の夏、ベートーヴェンはここで『第9』の作曲に没頭した。

 昨年の正月、SAKURAのメンバー数名と共にベートーヴェンが第9を作曲した家に行ってきた。時より雪がちらつく寒い日だったが、家を眼の前にして僕は湧き上がる感動に奥底まで熱くなっていた。
 しかし、当時の人達は、この小さな街で、未来永劫人類の至宝になるであろう大曲が生まれつつあるとは夢にも思わなかっただろう。
 部屋を出てもその場所から去りがたく、近くの喫茶店に入った。
 日も落ち、刻々と群青を重ねていく外を眺めていると、雪など全く気にしない様子で、ぎらぎらした眼の小男が前屈みにゆっくり歩いている姿が浮かぶ。
 狭い道で他に歩いている者は居ない。すると、気配を感じてか彼がほんの僅か視線をこちらに向けた。はっ、と思った瞬間にはもう何事も無かったように元の姿勢で歩いていく。その時、たった今完成したこの曲が僕の頭に鳴り響いた…。

 今ではアマチュアも当たり前に演奏する第9だが、この曲の対し敷居が低くなった昨今の風潮に僕は馴染まない。「年末には第9」のコピーでこの曲が磨り減らされていくのを見るのも辛い。ましてや、誰でも簡単に演奏出来る、という言葉や姿勢には敵意こそ感じる。

…今、パート譜が上がってきた! インクの手書きだ。それにしても…この仰ぎ見るスケールの大きさは何だ! こんな途轍もない曲を僕達は再び演奏出来ることがあるのだろうか? 恐らく、これが最後だろう。しかしそうだ、恐れることは何も無い。何故なら、僕達の隣にはベートーヴェンが居る。今だからこそ、彼の息を感じながら演奏できるはずだ。

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