金泥書に命を吹き込む瑩生

  天平時代から平安朝にかけて、数多くの金泥経典が書かれた記録が残されていますが、奈良国立博物館に国宝として保存されている「金光明最勝王経」のように、今日まで殆ど完全な形で保存されているものがある一方で、装飾は美しく残っているものの、肝心の経文の金字は痕跡のみを止どめているにすぎない状態の経典も数多くあります。
 この違いはどこにあるのでしょうか。
 福島氏は、膠溶液の濃度が低いこと、少ないことの他に書写 後に『瑩生(えいせい)』がされたかどうかではないかと話されます。

 金泥による書写 を始めた当初、福島氏は自分が書いた金字の色が日が経つにつれて赤土のようになり、金色に光らない事を疑問を持っていました。そんな時、小松茂美監修・宇塚澄風著『甦る金字経』という書籍の中に掲載された、小松茂美博士の「奈良時代における『瑩生』というもの」という論説によって、金字を光らせるための『瑩生(磨き)』という作業があることを知りました。動物の角を使って書いた字を磨くというのです。
 福島氏は歯科医師ですから、それを専門の歯と同じ「琺瑯質や象牙質程度の湾曲した平滑な物」と想像し、金属棒の先端を打ち板にして人工歯を作る要領で陶材を使って、金字を磨くための道具を作りました。

 そして早速、自分が書いた金字を堅いボール紙の上に置いて少し力を入れて擦ってみると、今まで赤土で書いたようだった文字が、まるで金の板になったかと思う程美しく光ったので大変驚いたとの事。しかしその時は、なぜ磨く事で文字が光るようになるかという理由までは分かりませんでした。

 

 瑩生前の文字(約40倍)瑩生後の文字 (約40倍)

 そこで、福島氏は金字を磨く前と後の状態を比較するため、母校である大阪歯科大学中央歯学研究所に電子顕微鏡写 真の撮影を依頼したのです。

 

 瑩生前の金字の状態 (1000倍)瑩生後の金字の表面(1000倍)
 

 上の2枚の電子顕微鏡写 真を見れば、金字が光る理由は一目瞭然です。
 磨く前の状態は、まるで小さな紙切れが砂浜の砂の様に散乱しています。金粉はどれだけ細い粉にしても板状のままなので、散乱している状態では触れると剥離しやすく、乱反射して美しく光らないのです。しかし、これを圧迫(磨く)することによって、金粉は平らな板状になっています。このため、それぞれの粉末が膠によって広い面 積で強い力で接着し、正反射して光るという訳です。

 「正倉院文書」によると、天平時代の写 経所において、金泥書写が終った後、金字表面を磨く人を『瑩生』と言い、磨く道具としては『猪牙(チョキ)』を使用したとの記述があります。
 『瑩生』の瑩は「みがく」ということで「磨く」とも書きますが、文字を光らせるのは紙に圧接する行為であります。
 当時貴重であった和紙に、やはり貴重な金属である金を使って筆で字を書くことを考え出し、さらにそれを『瑩生』する事で光と命を生み出した事は、正に神業としか思えません。

 瑩生の道具である『猪牙』についても、福島氏の好奇心によって解明された事があります。
 猪牙は文字通 り猪の牙ですが、外国(中国・朝鮮半島諸国)では猪牙を使用したということを聞かなかった福島氏は、金字を磨く道具として何故『象牙』では無く『猪牙』が選ばれたのかに興味を持ちました。そして、その答えは両者の特性と天平金泥写 経に使用された和紙の染料にありました。
 天平時代の金泥経には、紫根染または藍染の和紙が多く使われていますが、実際に象牙を使って紫紺染の和紙に瑩生を行うと、すぐに滑りが悪くなり紙面 に密着してしまい、瑩生の作業を続けられないのだそうです。
 これは、象牙には内部に栄養が補給されていた細管があり、その細管に紫紺染の染料である油性の「シコニン」が毛細管現象で吸着されてしまう事が原因だそうですが、紙に面 する部分が琺瑯質の猪牙は、その質がはるかに緻密で象牙のような細管が無いため「シコニン」を吸収しないので、その影響を受けずに瑩生作業を行えるとの事です。
 こうした理由で紫紺染の瑩生が行えない象牙ではなく、猪牙が選ばれたのではないかとの解明は、歯科医師である福島氏ならではの事だと思います。

 

 猪牙の表面 (2500倍)象牙の表面(2500倍)
  左の猪牙の表面 は密度が高い平面。右の象牙の写真表面に黒く見えている部分が、紫紺染のシニコンが吸収されている状態。
 
 瑩生用具
 左湾曲した形状のものが猪牙。豆粒状のものは金属に人口歯を作る材料で製作した自作の道具、右は象牙の箆(ヘラ)
 


 電子顕微鏡も無く、染料の科学的な特性などを知る事が出来なかった天平時代の写 経所で、試行錯誤の末に編み出された『猪牙』による『瑩生』は、金泥写経を現代まで燦然と光り輝かせる命を吹き込む技術なのです。

 フォーラムで瑩生の実演を行う福島氏
 
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